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聖書の分かち合い

 創世記:32章23節~
  「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側目、それに11人の子供を連れて、ヤボクの渡しを渡った。みなを導いて川を渡らせ、持ち物を渡してしまうと、ヤコブは一人後に残った。その時何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところがその人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしている間に腿の関節が外れた。『もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ祝福してくださるまでは、離しません。」『お前の名はなんと言うのか』とその人は尋ね、「ヤコブです」と答えるとその人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦ったからだ』
 「どうかあなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると『どうして私の名を尋ねるのか』と言って、その場でヤコブを祝福した。

 この箇所が、ある時ふっと腑に落ちて、とても気持ちがすっとしたことがありました。私の解釈が的外れなのかもしれません。「ヤコブが一人になったとき何者かが襲ってきた。」というところでは、災難や苦しみ煩いというものが起きて来るとき、人は一人で孤独を感じながら、その苦しみや悲しみに出会うということではないかと思いました。また、ヤコブがどんな人であれ、またどんな状態であっても、ヤコブに責任があるわけではなく、災難や苦しみや煩いは、理不尽にも、暗い夜、1人の時に襲ってくるのです。けれども、夜が明けてしまうと必ず、消えてしまうものなのです。ヤコブは夜の間、格闘を続けて、何者かが「離してしてほしい」と言われても、「祝福してくださるまで離しません」と、しっかりとその苦しみや、悩みを自分のものとして、受け止めています。最期まで受け止めていれば、必ず夜は明ける。そして、祝福を受けることができたのです。もし、途中で格闘を止めたら、苦しみや災難は、苦しみや災難のままで、祝福には変えられません。夜が明けるまで格闘を続けることによって、相手の顔を見ることができ、それが神様だと分かるのです。つまり、どんな苦しいことであれ悲しいことであれ実は、神様が、別の形をまとって私たちに挑んでおられるのだと思いました。しかも、格闘を続ければ必ず勝てるものであり、夜が明けると去っていくものであると知らされて、励まされます。
苦しい時も辛い時も、本当はそのまま手を離してしまいたい。最後まで耐え忍ぶ者は救われると聖書にありますけれども、中々そこまで行かなくて、もう逃げ出してしまったこともありました。途中で投げ出してしまったことで、祝福を得られなかったという体験も何回もあります。最期まで手を離さない、祝福を頂くまで離しませんという思いが信仰なのだと、フッと腑に落ちたことが、最近ありました。
また、名前を付けるということは、ラベルがつくということであり、その苦しみなり悲しみなり、災難なりが、自分のものになる、というシンボルではないかと言う気がしています。名前が付くことは意味が与えられるということです。ヤコブはイスラエルという名前を貰いました。現在、私の抱えている悩みに対しても、夜が明けるまで格闘を続けると、その悩みの本質が見えて、素晴らしい祝福に変えられるという希望になりました。そして、それにふさわしい名前が付き、意味が与えられるという期待があります。
 私の解釈が違っているかもしれません。
 祝福を得るには、ただ待っているのではなくて、自分から格闘し、願って、願って、祝福を頂くまでは離しませんというこの信仰が大切なのだと、最近思ったことでした。

私の思い(0) 日付: 2014年03月31日

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電話で祈る会に参加して・・・ 感想


 電話で祈る会は毎週1度の大切な時です。  キッペス神父様のおん父、イエズス、聖霊への連願によって心が静かにされ、詩篇を順番に唱えるうちに何かが変わっていくのは不思議です。霊的な歌と個人の聖書の分かち合いから多くのヒントをいただきます。自分の分かち合いよりもメンバーの分かち合いを聴かせていただくことが力になっています。  今は、イエズスの御許にいる友たちも一緒に祈ってくださるのでうれしいです。  25年もの長きに渡って慈しみ深いイエズスに導かれていることに感謝!   (M.R.)

私の思い(0) 日付: 2013年04月01日

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 毎週一回、御父イエズス、聖霊とキッペス神父様と会員の皆さまと共にいさせて頂く静かな、大切な時間です。

 同じ詩篇を20数年唱えさせて頂いていますが、その時々に詩篇の言葉に力を頂いたり、人生の指針を頂いたりします。

 長い間続けているのは不思議な体験があるからだと思います。


  2013.3.18 (I.S.)

私の思い(0) 日付: 2013年03月27日

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 電話を通して祈ることは私にとって新たなチャレンジでした。
 五感で捉えている感覚を耳で聴く刺激だけに集中することにためらいもありました。
 黙想会の時、皆で祈る詩篇や聖歌はとても心地いい一体感がありますが、電話という媒体を通すとまたさらに現実味を感じます。一人ひとりの息遣い、のどの調子、咳き込んでいる様子、気持ちが沈んでいる様子。身体の調子から精神的な状況も様々です。
 聖書の分かち合いになると福音から全く予想外の感想が聞かれることもあります。うれしいこともあるし、叫びのような辛さもあり、心に残ります。まだ参加するようになって数ヶ月なので私自身が聖書の分かち合いをしたことはありませんが、共に祈れるひと時に充実感のうちに電話を切ります。これからも共に祈らせてください。 (R.M.さん)
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 「電話で祈る会」20周年おめでとうございます。 私が参加させて頂いたのは、正確に覚えていませんが1990年の洗礼の恵みお頂いた前後だと思います。
 自炊生活で仕事が忙しい時期でいたから、週一回の「電話で祈る会」の時間の調整は大変だったと記憶しています。
 最初は祈りの習慣がないので戸惑い、集中できない時間でした。しばらくして自ら聖書の箇所を事前に選ぶようになって主体的に祈りに参加できるようになりました。
 週一回とはいえ「電話で祈る会」で祈ることで、信仰を育て、祈る習慣ができるように思います。 結婚して共稼ぎの生活で「電話で祈る会」を退会しました。
 結婚して15年、娘を交えてほぼ毎夕食前にお祈りをしています。「電話で祈る会」で共に祈ることの大切さを体験していたからと感謝しています。 
 皆様の集いに精霊の息吹が注がれますようにお祈り申し上げます。 (H.Y.さん)

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私の思い(0) 日付: 2008年02月13日