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神秘 ことばの限界 毎月の黙想 2017年11月 238号

神秘 ことばの限界
イエスの名前


 自分のことですが、私の生き方や人生の意味・目標に対して基本的な影響を与えているのはナザレのイエスです。私のイエスに対する関心は自己の発見に拠らない、両親の生きたローマ・カトリック信徒としての生活(模範)でした。そのことにも親に感謝しています。だが信仰は静的なものではなく自分のものになるためにはプロセスが必要です。言いかえればわたしの信仰も変わってきました。というのは信仰だけでなく存在そのものは神秘だからです。それを理解させてもらうのは人生の絶え間ない歩みの中であり、恐らく「死」はその入り口に初めて立つ機会となるのではないかと考えています。創造主の存在自体は神秘であり、その神秘を言葉で表現することは不可能と言わざるを得ません。他者、ましてイエスの場合は前例がありません。

 初代のキリスト教
 新約聖書には、生きたイエスとよみがえられたイエスのために50ほどの称号が使われているようです。この名前や肩書きは初代キリスト者が付けたものではなく、その当時の社会で選び出されたものです。パレスチナの初代教会をはじめとして、ギリシャ文化の中に住むユダヤ人および異邦人の社会ではイエスを表す標語(orスローガン)として使われました。たとえば:「人の子」、「もうじき来られる“主”」、「世の終わりに活躍する、「ダビデの子」や「代わりに苦しめられる神の家来」。さらに「現在おられる主 “キリオス”」、「救い主」、「癒やし主」、「子」、「神の子」、「ロゴス(神の言葉)」など。イエスを言い表そうとするのは非常に苦労でした。その当時の社会で理解できなかった肩書き(タイトル)はすぐに消えてしまったのも当然ですが、肩書きの幅はさらに広がっていきました。たとえば、ギリシャ語に訳された「メシア」は「キリスト」になり、それがイエスの特別な名前、すなわち「イエス・キリスト」になりました。*1 結論として言えるのは、これらの変遷がイエスへの理解度に変化をもたらし、現在も続いているのです。イエスについてのさまざまな研究や理解は継続されているからです。例:多様な新約聖書の翻訳。

 私個人のこと
 私はイエスに対して「主」の肩書きを使いたくありません。というのは「主」との関係を「上下」関係の重荷として体験しているからです。日常生活では目上と目下が自由に意見交換できるのは一般的ではありません。宗教団体を含めて目上との関わりが相互に活かし、成長させ合うことはまれではないでしょうか。ところがイエスの生き方はまるで異なっています。イエスは目上ではなく、友として関わってくださった/くださるお方です。それは「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」*2 という発言からも解ります。 私自身は、「イエスは友 Jesus is a friend」と呼びます。それは自分勝手な生き方などを許してもらうような許可証ではない。逆に友として、なおも友(イエス)に従って生活を送ろうとする努力の起因になります。言いかえれば掟としてではありません。自己の良心に従って善悪を判断し、良心の責任放棄をせずに、善は善、悪は悪を意識して日々を送るライフスタイルの試みです。

 「イエスは友 Jesus is a friend」
 「イエスは友 Jesus is a friend」と言っても、イエスはたくさんの「友」の中の一人ではありません。イエスは私の存在の基礎になるものです。イエスなしには自分の存在に意義よりも、まず土台そのものがなくなります。イエスは私が自分自身になることを育成させてくださるお方です。それはひとり一人を単に他者としてではなく、唯一の存在~only one~として見て、尊重するきっかけになっています。イエスにとって人間は「もの」としてではなく、ひとり一人のために命を犠牲にするほどの尊い「者」なのです。

 イエスとは
 イエスは「存在」そのもの、つまり神秘です。神秘そのものが理解できれば、神秘とは言えないことは常識でしょう。この事実にも関わらず、どの時代においても、イエスを信じる人々はイエスの理解を深めるために研究し続けています。発見したことを現代の言葉で表わそうとするのもごく自然なことでしょう。たとえば、会社などはイメージアップのために、感覚に訴えるような宣伝文句を使おうとします。例:「あなたの一番近くにある安心」、「人生に旅という喜びを(札幌空港)」、「安定、安全、安心な町作り」など。
 もし現代にアピールするように、イエスに称号を付けるなら、「ヒーロー」、「チャンピオン」、「ノーベル賞受賞者」、「いつでも新しい」、「生命保証」「健康の元」のような言葉(トレードマーク)でしょうか。ちなみに「一時的なイベント」はイエスを理解するきっかけにはならないだろう。あくまでも内面的な事柄であるからです。現代社会/世界でイエスをアピールするのは、その偉大さや唯一さを現代人の感覚または心に働きかける表現が必要でしょう。
 初代の教会では「主(は)イエス」と信仰を宣言することは、殉教の覚悟を呼び起こす力がありました。ローマ帝国では、イエスに従った人々は信仰を捨てる誓い「Kyrios Kaisar 皇帝は主」を要求されていました。ところがイエスに従った人は「Kyrios Jesous イエスは主」と応え、死刑になりました。*3 ちなみに「Kyrios」は、現代も「キリエ エレイソン 主、哀れみたまえ」として使われ、人々に信じる力を与えているようです。少なくとも著者にとっては。

 「イエスは主」と強調したのは、福音を伝えるとき、聖書や教理学習、また洗礼、最後の晩餐の記念、そして説教の場面での核でした。教えや礼拝ではなく、「主イエス」が中心課題でした。だが「主」とは親方・親分を意味するボスではなく、命への手引き(ガイドライン)となるものです。ところが教会での教えや生活スタイルは、「主イエス」が「主である教会」になりがちでした。たとえば模範として自ら奉仕する立場である人を「神父様」や「モンシニョール(司教)」などと呼ぶことなどは友であるイエスをあまりあらわしていないからです。その結果、私は「「イエスは友」を自分のイエスへの信仰理解のべースにし、今もそうしています。イエスは私にとって「本物、唯一の存在になるように活かせる元であり、友」なのです。

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1: 聖書では「ダビドの子」は20回ほど、「神の子/息子」は75回ほど、「人の子」は80回ほど使われている。だが、「キリオス(主)」は350回ほど、「キリスト」は500回ほどイエスのために使われている。「メシア」はキリスト=油を注がれた者という意味
2: ヨハ15:14-15
3: データはHans Küng “Christ sein” 2010, page 374-375.

私の思い(1) 日付: 2017年11月06日