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聴け 対 従いなさい 毎月の黙想 245号 2018年6月

聴け 対 従いなさい


 最近考えさせられたこと。信仰、信じる事には多様性がある。一つはニュースを聞いて、TVアナウンサーの読み上げた出来事をそのまま受け入れ、周囲へその通り伝える事。もう一つの方法は聞いた出来事を自分なりに解釈し、調べ、周囲に自分の解釈(意見)として分かち合うことである。私事として説明する。私は誰かに「何処の国ですか」と聞かれ、「ドイツ人」と応える。すると質問者はすぐに「ドイツ人はよくビールを飲み、ソーセージを食べますね」と言われる。この返事の内容は恐らく相手の体験ではなく、周囲から学んだことだろう。
 信仰の場合も似ている。ある人は子どものころに親から言われたまま毎朝、仏壇の前で手を合わせている。同じように教育された兄弟姉妹でも「私は人間が死んだなら、別にそこにはいないと思うので、特に手を合わせません」。一人は言われたことに盲目に従い、もう一人は考えた上で行動を選択して生きている。


 聖書の解釈については山ほどの体験や解説がある。*1 どうしてか? その理由の一つは同じ言葉であっても、様々な意味合いにとれる余地があるからだ。例:「天」「救い」「誘惑」や「神」などはその時代の影響だけではなく、個人的な体験やとらえ方は様々であるからだ。例えば、500年前までの「日が昇る」という学説も現代では文学的表現と解釈されている。あるいは「神の右の座」のイメージはまだ生きているようだ。だが神は「霊である」と信じながら「神の右の座」の概念は変わっていない。「霊である天使」に身体的なイメージをもつのも一つの例である。


 神に聞いてしたがうこと


 前述のことについて私は考えさせられている。というのは「神に聴くこと」と「神を信じること」の違いがあること。すなわち、ユダヤ教の仰宣信言は「聞け、イスラエルよ!」と始まる。それに対して私を含めたカトリック使徒の信仰宣言は「天地の創造主、全能の父である神を信じます」から始まる。信仰宣言の始まりにおいて、「聴くこと」と「信じること」の内容や意味は異なっている!「聴くことは」自分が聴いたことについて考える事への呼びかけである。これに対して「信じなさい」というのは「ありのままで信じ、従いなさい」という命令(すすめ)が含まれている。
 旧約聖書からの例:「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物や生贄であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことは生贄にまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』」*2 と。そのテキストはヘブライ語で書かれており、その意味は「主が自分の声を聴くことと、焼き尽くす献げ物や生贄を同じように喜ぶだろうか。聴くことは生贄にまさり、何事にも力を集中することは動物の油脂にもまさる。」


 「聴くこと」と「(盲目に)従うこと」を日常生活の例で説明してみる。例:目上の言うことを言葉通りに従うか、それともその発言の内容を自分なりに考えた上で行動をするかどうかでは異なるだろう。目下の者は「目上が実際に何を望んでいるか」という内容を考えた上で行動するのは常識的な人間関係であろう。
 親子の場合もそうではないか。母親から「上から2段目にある棚のお皿をもって来てください」と言われた子どもは、もしお皿がその棚に見つからないなら、自発的に他の棚を探そうとするだろう。母親の願いはお皿を見つけることであり、“上から2段目の棚”はそのための具体的な場所(手段)と考えるのではないか。


 「信仰離れ」が言われる現在において、信じる宗派が違っていてもともに手を合わせて、祈る行為に違いはないであろう。例:旧東ドイツと西ドイツが統一された要因の一つは互いに祈った行為であった。その時代のニーズを発見し、それに向かって自発的に働きかけていくのは“現実を聴く”ことである。
 私事だが、最近一人の僧侶が「イエスの死と復活の記念」に参加してくれた。私はもし彼が「イエスの御からだと御血」をもらいにくれば“どうすればよいか”と心配していた。イエスはそのような心配をしなかったと思う。幸いに彼は自然にその行列に並び、祝福してもらうために頭を下げられた。私は安心すると同時に驚き、「私も祝福してください」と頼むと、彼は頭に手を置いてくれた。その行為は私にとって癒やしになった。現実を生きるには、現実の状況についてよく考えることが不可欠な条件になるであろう。
 最近、ドイツ・カトリック教会の解決できていない一つの課題は、「夫婦の一方がプロテスタント、もう一方がカトリックであるとき、イエスの御からだと御血を頂けるかどうかである。司教団の20人は賛成し、7人は秘密にローマ教皇フランシスコへ反対意見を述べ、指示を仰いだ。ところが教皇フランシスコはドイツの司教団で話し合うようにという返事をした。言い換えれば、教皇フランシスコからの命令ではなく、「自分たちが納得し、解決できるように、ともに働きかけてください」と応えた。ちなみに今までは「ローマは意見を出したので、その問題は解決した」*3 という習慣に従っていた。時代のニーズから目をそらさずに耳を傾け、聞き取ろうとする努力、行為が要求されている!
 信仰は規則(法律や命令)として盲目的に従うか、それとも状況を観察し、責任をもって問題の解決に向けて工夫できるか。そのどちらが今、要求されているのであろうか。自発的に責任ある行動であっても、目的に達成するかどうかは分からないとしても。自然科学のように現実を研究し続けるのは不可欠である。


 世界のニーズを知り、それに応えるための反省


 カトリック教会のメンバーであるわたしたちは誰かに言われたからではなく、自発的に社会、世界のニーズに敏感になる必要がある。
・私事だが、見知らぬ人に対する日々の挨拶も礼拝の具体的な準備になる。「皆は兄弟姉妹」と教会内で言われていることも、実践しないなら、魅力のない行動であろう。
・礼拝の際、現在の世界状況を意識するのは必然的事柄であろう。
具体的な例として、
・カトリックと他のキリスト者を礼拝に招くこと
などに関心をもち祈ること。その為に自分と違っている信仰をもっている人々を招くのは当然でありましょう。


・北朝鮮とアメリカの関係改善を祈る
・インドネシアやアフリカのキリスト教徒への迫害
まとめとして、
・「聴くこと」とは現代社会のニーズを発見し、それに対する考え、責任をもってほんのわずかだけの活動でも聴くことになるだろう。
聴く行為は実現の根源を掘り出すパワーになる。言い換えれば、

「悪の根を断つための善を生み出す行為」

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1: 異なっている体験があっても、すべてが文書化されているわけではない。口述されたでき事も多い。
2: サム上15:22
3: Roma locuta est, causa finite est.

私の思い(1) 日付: 2018年06月01日